自分は、二人の祖父に人生の影響を受けてきた。一人は、前述した、満州で馬賊になりたかった「樺澤繁次郎」そしてこれから紹介する陸軍中野学校 (今の内閣企画室、つまり日本の諜報機関)「一二三九兵衛」である。
祖父、一二三九兵衛から戦時中の話を聞いたことは一度も無い。職業軍人だったからもあるが諜報活動がメインの機関だから言えなかったこともあるのだろう。
小野田寛郎少尉が、1974年にフィリピンから帰還しあときも、上司にあたるらしく(大尉だから)わざわざ、だるまをもって迎えにいったそうな。
また1991年に祖父が亡くなった時も、お葬式に陸軍中野学校のOB達7名位の老人たちが、陸軍中野学校校歌で送り出すために群馬県の前橋までわざわざ集結した。
自分にとっては優しいお爺ちゃんだったのが、一二三九兵衛なのだが、もう一人の祖父の繁次郎は、「潤、あの目、まるで鷹の目だ、あの男の目は軍人の目だ」とその鋭さを語ったものだ。
そんな一二三九兵衛の戦時中の活動は、WEBサイトにいくつか文献があり閲覧することができる。こちらは、第135号 昭和20年6月11日 陸軍異動通報 という、国立公文書館 アジア歴史資料センター という機関が保存しているもの。こんな軍事機密をよくぞ保存できたもんだ!昭和20年6月11日の異動ということは、いよいよ、戦局が苦しいときの打開策もあったのかも知れない。
続いては、NPO法人インテリジェンス研究所 というところのレポートに2件、記されていた。
参謀本部の謀略放送 恒石重嗣 少佐の活動 というレポート。この恒石重嗣さんは、後に「心理作戦の回想 : 大東亜戦争秘録」を出版している。その後任で祖父が入ったということだ。
ちなみに、少佐のポジションは、少佐>准佐>大尉> 中尉>少尉>准尉>曹長>軍曹>伍長>兵長>上等兵>一等兵>二等兵の順番らしい。大佐は会社で言う部長クラスで、大尉は課長クラスとのこと。つまり、次期部長候補の時代ということになる。つまり、祖父の一二三九兵衛は、1945年の6月11日から8月14日のどこかで少佐に昇進したことになる。
こちらは、陸軍中野学校の対外謀略ラジオ―史資料 だが、祖父について書かれている。
「一方、終戦時に誠意をもってキャンプの処理にあたった一二三九兵衛少佐は、日本人スタッフ全員から好感を持たれた者もいる。憲兵や下士官、衛兵約10人がいた。カズンズと憲兵とが並んだ写真が捕虜と憲兵の関係を象徴している。
とまあ、細かく書いたが、戦後70年経た今でもこうして祖父の活動を掘り起こしてくれるのとはとてもありがたいことだ。
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