top of page
検索

尋ね人 一二三家の一二三米二郎の子孫の方がいたら(樺澤潤)

私の母方の祖父は、一二三九兵衛で戦時中は陸軍中野学校を経た軍人として活躍しておりました。

写真右が、一二三九兵衛、左が祖母、一二三富美子

こちらがお墓なのですが、数年前に墓の裏面に書かれている人の中に「一二三米二郎」と記載されていました。

明治元年から昭和28年まで生きた人(享年84才)です。

しかしながら、祖父の九兵衛は大正3年生まれなので、48才で生まれてくる子供にしてはずいぶん遅い。

そこで母に聞いたら、

「一二三米二郎は、かつては、京都の呉服屋の跡取り息子で京都にも家族があった。しかし放蕩三昧で、ある日、花札の賭け事で家ごと賭けて、財産を失い離散した」

とのこと。

そして、第二の家族が出来たのが、私の祖父の九兵衛と、弟と妹を入れた三姉妹。

しかし、暮らしは楽にならず一家は、北海道開拓に望みを託し岩見沢市に移住。

途中、生活が貧しく、一番下の妹は親戚に養子に出されたらしい。

そう、この明治元年に生きた一二三米二郎は、なかなかのクズですww

しかし、私の母の姉に当たる叔母が会社員をしていたころ、店頭で接客していた際に名札を見た、一二三米二郎の以前の家庭から連絡があったそうです。


今回、私がこうして一二三米二郎に触れている理由は、私の母も叔母も叔父ももう高齢であり、墓終いをする可能性がある。


同時に、一二三家は、私も樺澤の姓だし、女性のみなので、絶えることになる。


その前に、一二三米二郎、または一二三家の子孫の方がいるならば教えて欲しいのです。


今のところ、情報源としては、

●一二三米二郎は、明治元年に京都で生まれ、昭和28年に没している。

●明治時代は、京都で呉服屋を営んでいた家の放蕩息子。

●明治の中期から大正元年くらいまで、京都で家庭があった。


●一二三米二郎の娘は、親戚の中山家に養女に出されている。ちなみに、一二三九兵衛の嫁(私の祖母)の富美子は、中山家の出身。私の母親が言うには、「妹同氏を交換したようなイメージ」らしい。


●親戚に当たる中山家は、寺の家系。


●文献を見ると、京都府京都市の出で蹴鞠の名人の公家が蹴鞠の掛け声で言った「一二三」、あとは、高野山真言宗の岩倉寺の僧侶による明治新姓が始まりらしい。


もし何かしらの情報がありましたらよろしくお願いします。







閲覧数:36回0件のコメント
記事: Blog2_Post
bottom of page